鏡に映った自分の顔を見て、どこからどこまでが自分の鼻であるか、正確に言える人がいるでしょうか。
言葉の上では分けられても、つながって成り立っている私たちの身体。
見た目はもちろん、その機能においても単独で発揮されるものではありません。
それは同時に負担についても言えること。その時々、様々なバランスで負担を分散しています。
ですから、どこかが痛いからといって、そこだけが悪い、ということはありません。
例えば、腰痛、腰は身体を表す月に要(かなめ)と書くように、負担が集中しやすい場所、声をあげやすい場所です。他に異常があって働きが悪い分の負担を、腰が請け負って、痛みや違和感というように表現します。
だいたい、痛いところ、表現がはっきりしているところは正常に働いているところです。
問題点は別にあって、黙して働けていないところです。
治療は、痛いところなど、身体の表現を黙らせればよい、というものではありません。
無理に黙らせれば、その不満が更に身体の中身をややこしく歪め、他の形で噴き出ることも。
黙しているところにも氣を向けて、つながりを築き直していくことが大切です。
当然、当庵の施術対象は、病院のように科を問うものではありませんし、整骨院のように、運動器のみを対象にする、というわけでもありません。
精神と身体のつながりも含め、生きて変化し続ける、「あなた」そのものが対象です。
自分はもちろん、他の人も絶え間なく変化していますから、自分と他の人で歴史が違うように、身体の中身、はたらきの程度、バランスはまるで違っています。
例えば、一口に腰痛と言っても、人によって、原因、程度、問題のある場所など中身は百人百様、ということが起こってきます。
当然、身体に関して、マニュアル的なことは限界が生じます。全ての人に有効な治療法というものが未だ存在せず、あの人はこういっているが、この人はまるで正反対のことを言っている、ということが生じてくる道理です。
理屈的なマニュアルに身体をあわせろ、というのが乱暴で無理な話。
ですが、悲しいかな、ご自分の歴史、そして進行方向とは相いれないマニュアルを導入して、かえって身体をいびつにしている方が多い今日この頃。
誰かの作ったマニュアルは必ずしも通じない自分の身体ですが、行動を通じて作り続け、変化させていくことはできます。生きている限り。
それは同時に、今まで取り込んだマニュアル、即ち支配や束縛からの脱却であり、自分自身の人生を築いていく、可能性を拓いてゆく、ということでもあります。
当庵の施術は、マニュアルに人を当てはめるものではありません。
常々変化していくあなたの今、身体の要求を感じとり、それに添う方向で行っていきます。そのため、クスリを服用した際に表れるようないわゆる副作用や、刺激過剰による揉み返し等はありません。
人は一人で生きているのではない、などという、お説教を受けた覚えが誰しもあるのではないでしょうか。
身体を見ていますと、全くそのとおり、と思わざるをえません。
単純には、私たちは自分以外のものを食べなくては生きていけませんし、食べるものによって少なからず身体の状態は違ってきます。
また、四季遷ろう日本に生きる私たちの身体は、そのうつろいに応じて変化します。
最たるものは、人間関係。そのよしあし如何で、ストレスをため込み、病気になることもあれば、元氣になったり、いつも以上に力を発揮できたりすることもあるでしょう。
そう、人は周り(環境)との関係性によって変化し続けています。
しかし、社会においては自分の都合のよい人ばかりを相手にできるわけではないし、常に最良の環境を選べるか、というと、そういうわけにもいかないことも。程度の差はあれ、誰しもに制約が存在しています。
その制約の中で、如何に身も心も、そして頭も柔らく、しなやかに、自分の意志を通していくか。
あなたの周りとの関わり、という少し広い視野も大切に、あなたが周りとマッチして、ますます力を発揮できるよう、明響庵では整体を進めてまいります。